江戸時代には、この辺一体が茅野であったのを徳川幕府の御先手組の組頭であった「諏訪左門」が開地して組屋敷地としてことから、俗に「左門殿町」と呼ばれてきた。南に二ヶ所、東北に一ヶ所の木戸があり、表左門町、裏左門町と呼ばれていたが、明治期になり左門町となったとされる(東京名所図会)。 明治5年7月に忍原横町にある通称左門殿町とされる武家屋敷を、従来の俗称を残して「四谷左門町」と称したのが始まりとなる。昭和18年4月1日、左門町に平長町が合併して左門町が成立した。
江戸時代には、この辺一体が茅野であったのを徳川幕府の御先手組の組頭であった「諏訪左門」が開地して組屋敷地としてことから、俗に「左門殿町」と呼ばれてきた。南に二ヶ所、東北に一ヶ所の木戸があり、表左門町、裏左門町と呼ばれていたが、明治期になり左門町となったとされる(東京名所図会)。
明治5年7月に忍原横町にある通称左門殿町とされる武家屋敷を、従来の俗称を残して「四谷左門町」と称したのが始まりとなる。昭和18年4月1日、左門町に平長町が合併して左門町が成立した。